マロニー開発秘話

マロニー開発秘話
  • 今里時代の社員たち
    今里時代の社員たち
    吉村義宗事務所にて
    吉村義宗事務所にて


    もやし製造業からの出発

    創業者吉村義宗は、戦後のシベリアでの抑留生活から開放されて昭和23年(1948年)に帰国しました。
    物のない時代、野菜の仲買などの仕事を経て「もやし製造技術」を学び、昭和25年(1950年)九州から大阪へ移り住み、「もやし製造業」で独立しました。
    マロニー株式会社の前身である「吉村商店」の始まりです。

    原料の調達や製造工程に苦労を重ねながらも、もやしの新製法を確立しました。生産高は飛躍的に伸び、もやし業界でも注目されるようになりました。

  • 自動化されたもやし工場
    自動化されたもやし工場
    本社全景(昭和34年)
    本社全景(昭和34年)


    もやし製造業からの飛躍

    昭和30年(1955年)には、これまでの「吉村商店」を会社組織にし、「大洋産業株式会社」として再スタートをしました。
    工場設備では耐久面と衛生面の充実を図り、完全な機械化により当時としては日本一の生産量を誇りました。

    しかし、原料の緑豆が高騰するなど、もやし業界の環境変化が著しくなりました。
    「今後は、小売業者への直接納品と、小回りの効いた配達サービスが競争の決め手になる。もやしでのこれ以上の拡大は難しいだろう」と吉村は考え始めていました。

  • 当時の田村理学博士
    当時の田村理学博士
    本社工場地鎮祭
    本社工場地鎮祭


    「溶けにくいはるさめ」”マロニー”の誕生

    吉村はもやし製造業が順調に推移していた昭和36年(1961年)には既に「はるさめの製造販売」を考えていました。
    大阪府立工業奨励館(現在の大阪府立産業技術総合研究所)の田村理学博士に「溶けないはるさめの機械化生産を実現したい」という吉村の熱意が伝わりその研究が始まりました。これが「マロニー」開発作業の出発点でした。

    原料と製造工程の研究には試行錯誤が繰り返され、昭和38年(1963年)ついに「表面がつるつるで、側面に少し気泡の入ったざらざらした麺」が完成しました。
    その名は当時の社員からの公募で、「まろやかに煮える」イメージを抱かせる「マロニー」に決まりました。

  • マロニー第1号
    マロニー第1号
    マロニー第2号
    マロニー第2号


    マロニー販売開始〜全く売れなかった販売当時

    昭和39年に「マロニー」の試験販売を始めました。最初の「マロニー」は緑豆でんぷんにじゃがいもでんぷんを加えたものに、天然の葉緑素を混ぜ、薄い緑色をしたものでした。
    しかし、当時の「マロニー」は全く売れず、出荷から1ヶ月後には全品が返品されてきました。
    販売店の話によると「マロニー」の知名度が全くない上に、「どんな商品なのかわからない」「パッケージのデザインが食料品らしくない」という意見が圧倒的でした。
    そこで「すき焼き」の写真を入れたパッケージに変更しましたが、それでも最初の半年間はほとんど返品されてきました。

  • 現在のパッケージとキャラクター
    ロゴとキャラクター


    マロニー株式会社へ社名変更

    吉村には「マロニー」の名前がそのまま普通名詞として通用する商品に育てたいという夢がありました。「マロニー」を定着させていくには、商品名と社名が同一の方が有利だと考え、昭和53年(1978年)5月、社名を「マロニー株式会社」に変更しました。
    ちょうどこの頃「ダイエー」から「生マロニー」を扱いたいとの打診があり、納入を決めました。
    これが「マロニー」の販路の中心が「小売店からスーパーへ」と移っていくきっかけでした。


  • 中村玉緒さんのCM起用で全国ブランドへ

    1995年(平成7年)には、テレビ・ラジオCMの大量オンエアを始めました。
    大女優なのにユニークなキャラクターの持ち主として人気を集めはじめていた中村玉緒さんを起用。玉緒さんがアドリブで歌った「マロニーちゃん♪」を採用したテレビCMは、一躍「マロニー」を全国区商品に押し上げました。
    玉緒さんは、後の平成11年(1999年)、「最多CM出演女優」に輝きますが、ご主人の故・勝新太郎さんは「マロニーのCMには、玉緒の一番いい表情が映っている」と嬉しそうにおっしゃっていたそうです。

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